2017年10月18日水曜日

親日家は驚くほど親日家

教授のオフィスアワー(文字どおりオフィスに質問などをする時間)に行った。前に書いたフィードバックを大量にくれるスピーチのクラスの先生である。少しはなしをした後に、

「どうしたらスピーチが上達しますかね」

と質問した。まあ、当たり前だけれど母語よりも英語をしゃべるべきと言いたかったのだろう。

「どこから来たの?」

と聞かれた。日本です、といった瞬間の驚きと目の輝き。正直ぎょっとしてしまうほどだった。それから

 「昔行ったことがあるんだ。すごくいい国だった。食べ物も好きだ。また行きたいと思ってるんだよね。日本人の生徒は君が初めてだよ」

 と弾丸トーク。 なんとなく対応が優しくなった気もする。

授業の時はいつも通りだったから残念ながら成績には反映されないかもしれないが、熱狂的なファンがいるというのは、いつになっても楽しいものである。

2017年10月13日金曜日

アメリカ人はIt's so delicious!とは言わない

 英語の授業について美味しいー、というのはDeliciousと習った。それは誰でも知っているだろう。だけどこれが結構落とし穴だったりする。

フル・ブレックファストのイラスト
Home Sweet Homeの記事 にも書いたけれどもアメリカに来て最初はホームステイだった。食事付きなので自然とホストマザーに面して食べることになるし、最初は味が合うかわからないからご飯どう? と聞かれることもあった 。そのときに"It's delicious."と答えた。だって美味しいってDeliciousでしょ。と思うし、それが学校でなかった言い方だから。だが、いい意味の言葉のはずなのにちょっと変な顔をされた。どうして? 美味しいって言ってるのに! 

 無論、Deliciousという言葉が実はゲロマズという意味でしたということはない。Delicious=美味しいである。でも、普段はGood, great, niceみたいな「いいね!」系の言葉を使う。何をかくそう、DeliciousはI'm fine.の類の言葉だったのである。(習うけど普段口語としては使わない言葉)

 だから、使っても意味は伝わるけれど、ちょっとお固い印象を相手に与えてしまったりする。Deliciousよりも”It's so good! I like it!”というのが自然なのである。他の英語圏は使うかもしれないけれど、アメリカ人と食事に行った時は、Delicious以外の言葉がいいかもしれない。

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PS
 この美味しいを良いね(Good/Great)で表すのは、全部のことに「やばい!」というのに似ている気がする。言わないけれど超個人的なことを言えば、すべてをGoodと言うより、Deliciousという主に食べ物に使う言葉が良いなと思ってしまうのだけれど、それは机上の空論なのかもしれない。



2017年10月11日水曜日

Is diversity only for minorities?

 うちの学校にはDiversity Case Competitionというものがある。私は参加しなかったので詳細はわからないけれど、4人チームのうち一人はMinority(Latino, Native American, or African American)でなければいけない。これに何となく疑問を持ってしまうのは私だけだろうか。多分、ケースコンペを この動画を見た後に見つけたからかもしれない。

https://www.ted.com/talks/mellody_hobson_color_blind_or_color_brave

 アメリカというかどこでもそうかもしれないけれど人種は割とタブーである。ちらっと話すと空気が壊れる。どちらかというと言ってはいけない。そういうことを言う前に
Don't take it offensive although it sounds like racism. (怒らないでよね、ちょっと差別的に聞こえるかもしれないけど違うから!)と言われてからササッと差別的なことを言われる時はあるけれども。まぁ、そこは広い心を持たなければやっていけない。ある程度の妥協は必要である。

 そんな中で残念ながら自由の国アメリカの人種差別はいつまでたっても消えることがなかった。スピーチ冒頭で言っていたように、African Americanというだけで、会社のトップではない、と思われてしまうこともなくはない。だが、あえてこの不快感の中喋ることで後ろに隠してごまかすことをやめることができるのではないか、というのがMelody Hobsonの主張である。本当に差別をなくしたいのならそういうオープンな心も必要なのかもしれない。

 これを見ると、ケースコンペの”マイノリティーが必要”という縛りがどうなのだろうかと思ってしまう。タイトルにもあるように、Diversity=Minoritiesという式が存在するのはその裏に人種による線引きをしているからなのではないか? 私たちアジア人だっていろんな国がある。白人だったところで同じことが言える。一人一人が複雑な人種の混ざりを経て、今ここに存在している。多様性をというのならば、そういうことを多様性といったっていいはずだ。

 企業も多様性を掲げるところは多い。ただ、それを本当の意味で受け取っている企業は少ない気がする。Diversity=Minoritiesではない。Diversity=All racesということを分からないといけない気がする。

 

2017年10月8日日曜日

冷房の温度が一体何度なのかとても知りたいのだけど

 夏休みの話になる。私は夏学期も履修していたので、もれなく学校へと毎日で向かうことになっていた。学校の冷房はとても効いていた。この”とても”というのは、快適であるところから大きく外れてとても効いていたので、私の教室にはハイネックとジャケットが必要だった。もう少しで、家の奥にしまっていたブランケットを引っ張りだし、学校へと持って行こうかと考えたぐらいだ。

 それでも外は夏仕様なので例え8時からの授業だとしても炎天下である。いちいちカーディガンを持ち歩かなければいけなくて面倒くさかった。しかも一括統制なのか、温度の上げ下げができない。ON/OFFすら変えられないのだからこっちはガタガタ震えながら授業を受けなければいけないのは複雑な気分になる。外と内、足して二で割ってくれたら丁度いい温度になるのに。外は無理でも建物内ならそういう風に設定することだった可能なのに。全力で恨んだところで結局学期中変わることはなかった。

 日本では省エネなんて言って随分経つけれど、アメリカには省エネのしょの字も見受けられない。冬並みに寒い冷暖房を筆頭に、水、電気(つけっぱなしが多い)、リサイクル、その他もろもろあまり気にしない。先進国のトップを走るアメリカは、全くもって環境に優しくないわけで、それじゃあCO2がどうのこうのと言っているのも頷けるわけである。(エネルギー消費に関しては全く無知なので、CO2が本当にどうのこうの言われているのかは知らないけども。)

 日本も人口が多いけれど、アメリカの方が多い。土地も広いし工場も沢山ある。それらが本当に無神経にものを無駄にしていれば、環境が改善されることも、エネルギーをうまく守っていくこともままならないだろう。

 ただ、広大な土地を生かして大量のソーラーパネルや風車を見ることはよくある。日本の比じゃなく、ただ広い草原にブウァーーーーーーっと並ぶソーラーパネルは壮観である。割と電力もそこで賄えているのではないかなぁとも思うけれども、使用量と、自然エネルギーからの配給量が果たしてどれぐらいなのかは疑問が残る。

2017年10月7日土曜日

短い爪が示すものとは

 大学に来て驚いたことは、爪を噛む人が多いこと。カレッジではなく大学生だからかもしれないけれど、いい歳した子供(そもそも大学生を子供と呼んでいいのかは微妙だけれど)が、爪を噛んでいるところを見るとなんとも言えない気持ちになる。

 私は探偵まがいのことをするのが個人的に好きなので、人の手をよくみる。それは主に結婚指輪があるかどうかを見るための行為だったけれど、こちらに来てからはどれだけストレスを抱えているかの指針にもなった。時々いるのだ。本当に爪の半分ぐらいがなくて、切り口がギザギザしている人が。それを知ってどうするかというと全くどうもしないし、しゃべりもしないのだけれど、勝手に大丈夫かしらと心配している。見ていて痛々しい。

 でも、爪を噛みたくなる気持ちがわからなくもない。学生生活はつらい。高校生の延長上のようなことをしている気分に陥る。前にも書いたけれど、成績は絶対に見られる項目なので、常に勉強をして良い点を取らなければと思ってしまう。それに、グループワークが多い授業もあるから、自分一人で何でもかんでもできるわけではない。ストレスがたまる人にはたまるだろう。

 私にはリクルーターの人にいつも尋ねる質問がある。
「学校の授業で役に立ったものはありますか?」
答えは0−10%ほどというのが主。脱力したくなる。日本でこの答えが返ってくるのはなんとなく予想できる。けど、生活の6、7割を勉強に充てたところで結局のところ返ってくるのはほんの10%。爪を噛んでいる人は、そんなことをしてないで、開放的になった方がいいのかもしれないと思うレベルである。

 学問と仕事が違うのは知っている。学校は教育を受けるところであるので、脳の使い方も、学ぶ目的も違う。だから勉強すること自体が使えないことだとは思っていない。ただ、それが計ることができる 指針であるからといって、就活の一つの標準にするのはいかがなものだろうか。

 学生が爪を噛むことなく、単純に学ぶために学校へ行く日が来るといいのだけれど、まだまだ大学生の爪は短いままかもしれない。

2017年10月6日金曜日

ラスベガスの銃撃事件と銃社会について

 ラスベガスで銃撃事件があった。前代未聞の大量殺人だとか。でもそれは去年も確か聞いたことがあって、毎年毎年嫌味にも記録が更新されていることがわかる。ラスベガスで楽しくバカンスだったつもりが一瞬にして悲劇に変わってしまった。無差別で酷いことだと思う。また、犯行は用意周到にされていたらしく、警備が薄い32階のテラスから売っていたとのこと。容疑者は警察が来る前にすでに死んでいる。

 これを踏まえて今議論されているのは、銃社会がいいものかどうかということだろう。日本は銃社会ではないので、ライセンスがなければ銃刀法違反で逮捕される。けど、アメリカはそうではない。狩猟や単純にレクリエーションとして銃を使う人がいる。そして、家に銃を置いてある人は、少なくない。 それがこう言った銃を使う犯行をしやすい環境を作っているのだという主張がある。

 けれど、それで銃を持つことをやめてしまっていいのだろうか? 法を守るのはいつだって市民であって犯罪者ではない。犯罪者は、法があろうがなかろうが、銃を持つだろう。目の前に銃を向けられて対処の仕方がわからなければ、もっと死人が増えるだけではないか? この事件を見てそんなことを言っていた教授を思い出した。

 この事件では止めようがないかもしれないけれど、前に学校でマスシューティングの事件があった。その時、たくさんの児童が亡くなったのだけれど、犯人はたった一人。銃は無数に弾が出てくるわけではないのだから、弾変えの時は打てなくなる。教室に40人、人がいるのであれば弾変えの間に組み伏せることができなかっただろうか? 組伏せなくてもいい。椅子か机を投げたり逃げ出したりすることで、銃撃を遅らせることだってできたはずだ。”弾を変えている間は打つことができない”、という銃を持つ人ならば当たり前に知っていることを知らなかったため、誰も動けなかった。もし誰かが知っていたら、助けられた命もあったのではないか、というのが彼の見解だった。

 また、映画館には時々”警備員は銃を持っていません”と掲げているところがあるらしい。銃を持たずに銃社会に向けてメッセージをということなのだろう。でも、犯罪者側からしたらどうだろうか? 武器を持たない警備員がたくさんいますよ、さあどうぞ撃ってください。そういうメッセージになる。

 銃は危険だ。それは誰もが知っている。個人的には銃はなくした方がいいと思う。絶対にいい結果をもたらすことはないのだから。けれど、それを抑圧したからといってこの銃撃事件は防げただろうか? そして、それは銃をなくすということにつながるだろうか。それは、問題を背後に隠して、私たちは銃は良くないから取り上げますね。と言っているようにも聞こえる。それはとても聞こえが良く、積極的に銃の根絶へと取り組んでいるように見えるかもしれない。でも、それに伴って実際に犯罪率が低下するのかと思うと、ことはそう簡単にはいかないのかもしれない。

2017年10月5日木曜日

アメリカにあって日本にないもの(2)10代、20代のカード文化それから25セント

 日本にカード文化が全くないと言っているわけではない。友人にも数人、カードを使っている子はいる。でも、若い人は圧倒的に紙幣を使う人が多いのではないかと思う。諭吉さん、一葉さん、それから英世さんを見ない人はいないだろう。

 この間コンビニのような(ジャンキーな食べ物と飲み物、それからタバコが売っているところ)に行ってものを買うときに、紙幣を出したら変な顔をされた。さらに洗濯機を使うのに必要だからクオーター(25セント)でお釣りをください。と言ったら、

「寮なら学生証で洗濯払えるよ」

とオススメされた。もしかしたらただの親切心からかもしれない。けれど、

「もう誰もキャッシュなんて持ち歩かないでしょ」

 なーんて笑い飛ばしている教授もいるぐらいなので、アメリカはカード文化なのだ。私は持っているので、苦笑いしてしまったけれども。 私も普段レストランなどへ行ったり、大型スーパー(なんでもあるからとりあえずでかい)で買い物をするときはカードを使う。ただ、困るのがコインランドリー。洗濯と乾燥機に25セント*7枚が必要になる。両替機が隣に置いてあるなんて優しいことをしてはくれないので、タイミングよく25セントがお釣りで返ってきそうな時にはいそいそと紙幣を出すわけである。

 この25セント。年によって柄が違う。昔に教えてもらうまで気がつかなかった。クオーターは完全にお金として扱っていて、柄なんて気にも留めなかった。でも、それからはよく見るようにしている。毎年型を変えるのはめんどくさいし、お金もかかるのではなかろうか、とも思うけれど、そこはそっとしておく。


 今日たまたま2017年のコインがあったのでもう半年以上経っているものの早速みてみる。……正直よく分からない。なんだこれ? 抽象画みたいだな? というのが 感想。ネタがないのかもしれない。2018年はトランプ大統領でも彫るんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、このコインを入れて、洗濯をすることにする。

2017年10月4日水曜日

プレゼンの授業と、反省文

 プレゼンのクラスは、必修科目である。昔から人の前に出るのが嫌いだった私は、見事散々なフィードバックをもらった。落ち込むけれど、ありがたい。というのも、こんなにひどいとは思っていなかったからだ。そしてこれは日本語の時にだって通用する。話すのは苦手。それでも人前で話す機会は沢山ある。

 まず言われたのが、声のトーンが一定だということ。もともと棒読み傾向にあるのに加えて、英語は日本語よりもアップダウンが激しい言語。だから、よりモノトーンに聞こえるのかもしれない。どこに強弱をつけるのか、ちゃんとスクリプトを考えて、演劇みたいに頭に叩き込んだ方がいいのかもしれない。表情も乏しいと言われた。愛想がないらしい。ちなみに愛想はaffabilityという。形容詞はaffable。
ex) You should show your affable personality.
あなたの愛想のいいところを見せるべきだよ。

 愛想がないのは緊張は大きい。あともうこれは自分の性格だけれど、あまり表情が変化しないと言われる。眉毛を動かすのがキーらしいから、そちらはもう少しなんとかしたい。太眉だし、できるようになれば効果はあると思われる。愛想がないと言われたのは初めてだしなかなかぐさっとくる。笑ってるつもりだったけれどそうでもなかったらしい。本当、自分が思っているのと、他人が見ている自分は全く別物であることを実感した。

 あと、知らないうちに喋っている間に体重移動してちゃんと立っていないらしいのでそれも直したい。……難しいことが沢山だけれどもこれらはほんの序の口。

  私の最大の欠点はしゃべり方がChoppyであること。文の途中で考え込んでしまうのがよくないらしい。これを見た瞬間に
「友達にも言われたああああ」
と頭を抱えてしまった。ちょうど先週ぐらいに言われた。多分頭としゃべりが上手く連動していないんだと思う。頭の回転が遅いのかもしれない。 沢山Umというのも(Fillerという)よくない。これらは普段の生活でもやってしまうので自分での矯正が必要な項目である。とりあえず一文話し終わってから一言おくようにと心がけてみたい。無意識にやっていることだから、意識的に変えるのは難しい。けれどこれができるようにならないと私は死亡決定なので、なんとかしなければと思う。とりあえずTEDでも真似してみるか。

 あとは視線が一点になるのがよくない。ちゃんと見渡してと言われた。これは練習しようと思う。苦手、本当に難しいけれど、ちゃんと聴衆を気にしているよということを見せるにはそういうことをしなければいけないだろう。

 これが二回目のプレゼンのフィードバックだけれど、生徒が30人ぐらいいて、一人一人にしっかり時間をかけていると感じた。 心のそこからお疲れ様と教授に言いたい。いや、こんなにちゃんとアドバイスくれる人初めてだから感動している。プレゼンメンバーで先生の真似をしてゲラゲラ笑ってしまったことに罪悪感を覚えるぐらいには。

 ちなみに自分のプレゼンを見なくてはいけないという苦行をクラス内でしなければいけなかった。辛い。見ていても聞いていても辛い 。なんとかしなければいけないと心のそこから思った。くわばらくわばら。

2017年10月3日火曜日

 インディアナの空はでかい。そりゃもうインスタに空を乗っけつつポエムを書くのが大好きな人にはもってこいな感じだ。なんだっけ、イマソラというやつ。毎日毎日綺麗な空が見える。そしてiPhoneで十分なぐらい、映える空なのだ。朝8時からのクラスなので、少し暗いうちに家を出て、ちょうど学校に着く頃には綺麗な朝焼け、なんてことも多い。歩きながら紺、青、それから赤に変わっていくのを見るのは楽しい。今日は特に綺麗で、たくさんの人が写真を撮っていたので、私の感覚だけでなく、普通に綺麗なのだと思う。

 夢のないことを言うと、Building Codeで建物の高さが決められているため、高いビルがなく、遮るものがないから綺麗なのだろう。 カリフォルニアとも、日本とも違って、開放感に溢れている。

今日の空。雲が多いけれど、昼間は晴れている。
そういえば空を見上げて綺麗だなと思うことなんてそんなになかった。田舎に行って星空をおー!と感嘆しながら見た以来なきがする。空を見上げるなんてそんなポエティックなことを忙しい都会ではしなかった。というか、ビルとビルの間から見える空は、常に似通っているのでなんとなくつまらない。カリフォルニアはそこまでビルは多くなかったけれど、なぜか空を広いとは感じなかった。

 インディアナはただ広い。ずっと先の方まで見ることができる。地平線を見たことがある人なんてそんなにいないかもしれないけれど、そのぐらいまで悠々見渡せるのは田舎に住んで良かったことの一つ。

 昔、雲の図鑑を夢中になって読んでいたことがあった。鰯雲、入道雲、笠雲、ひこうき雲。有名なのしかわからないのはもうすっかり忘れてしまったからだけれども、今になって全ての種類が見れるようになった気がする。


一番綺麗だと思ったのはこれ。いろんな雲の形があるから図鑑を持って空を眺めたい。

 眠たい頭に綺麗な景色は、いつ見ても癒しになる。 8時のクラスがある生徒の特権なのかもしれない。
寮の11階にいたので眺めはいい

2017年10月2日月曜日

Are you promoting the school to students already in the school?

 私は音楽をSpotifyで聞くことが多い。ノルウェーの会社で日本でもサービスがある。(夏帰った時に使ったので、日本用のアカウントを作れば日本でも聞けることがわかった。)30分ごとに広告が来るのは無料で使っている手前仕方がないと思う。でも最近一つ疑問に思うことがある。うちの大学の広告が流れてくるのだ。

 今まではヘルスセンターの広告が流れていた。まあ、それは分かる。お世話になりたくないけれども、必要ならばそこらへんの病院へ行くよりも安く済むのだからいい。そしてそれを広告するのもまぁ、理解できる。

  でも、普通は大学の広告を大学内でするか……? どういうやり方で広告の設定がなされているかはわからないけれど、大学内を歩いて行く時に「〇〇大学〜〜」という広告を聞くと、ん? となる。この大学内のほとんどの人間は学生か教授なわけで、そこに向けてプロモーションしたって仕方がないだろうに。 

 広告料がどれほどなのかはわからないけれど、授業料から出ていると思うとさらにムカつく。高くつくならせめて賢く使ってくれ。 というかマーケティングの教授は大学のマーケティングに関わっていないのだろうか。割といいビジネススクールであると思うのだけれど、無駄があるのはよろしくない。ケチな私はそう思ってしまう。

 Spotifyの広告を使うのであれば、むしろ高校生の多いところ(州の中でも都心)とか、提携している短大があるところのほうがいいのではないかと思う。うちの大学はカリフォルにはにあるけれど、提携校らしく、比較的トランスファーがしやすい。広告をうちでするんじゃなくて、カリフォルニアでしてはいかがだろうか。

 そう思った矢先にまた大学の広告がやってきた。うへぇ。私の(もっと言うと私の両親の)お金が湯水のごとく流れているのが見える。

2017年10月1日日曜日

泣ける映画

 感動する映画は沢山ある。そして思わず涙がこぼれてしまう人もいるのではないかと思う。でも、私にとって”泣ける”映画は、私が当てはまりそうな場面だったりする。「親、祖父母が死ぬ時」これがダメなのだ。子供用の映画でもダメ。涙腺が必ず崩壊する。多分これは、一人暮らしをしていて、もしも自分が死に目に間に合わなかったらと思うとたまらないからだと思う。誰かが死んだのに、

「ごめん、学期の真ん中で来週ミッドタームだから日本に帰れないかもしれない。お葬式はよろしくね」

 なんて言いそうな自分が恐ろしい。誰か自分の大切な人の最期を見届けてあげられなかったら、一生後悔する気がする。それでもそうしてしまいそうな自分を、映画を通して見てしまうのだろう。ボロボロと泣いている自分は感動よりも若干の罪の意識に苛まれているような気がする。実際まだそういう事態にはなっていないのだから、妄想ぐせはよろしくないとは思うが、どうもダメだ。

 そして、今日もう一つ、ボロボロと泣きだす項目が一つ増えた。このユーチューブビデオを見て、泣けた。

https://www.youtube.com/watch?v=uVvbh2_Oh94

 これを見ながら一人部屋でボロボロと泣いてしまった。帽子をかぶった男の子が、「差別された時は強くて気にしないふりするけど、家帰ったら泣いている」と言っていて、どうすればいいのかわからなかった。

 先学期うちの大学で、レイプ事件があった。メールが一斉送信されてきたから覚えている。その時に、アフリカンアメリカンのクラスメイトが、「When I get a mail, I was like "Don't black. Don't black!!"」 と言っていたことを思い出した。アフリカンアメリカンは、悪いイメージを植え付けられているから、これ以上酷くならないようにと思ったらしい。言葉が出ない。

 シリアから来たという女の子が、「もし私が選べるのだったら、シリアに残っていた」と言っていて、なんとなく在日韓国、中国人を思わせた。ビジネスで来た人もいるかもしれない。けど、残りたかったのに来た人だっているだろう。少し前に確か教育費か何かの補助の問題で、「日本人じゃないんだから、援助がなくて当然でしょう」と言っていた人がいて、傷ついた。悲しい。何をもって日本人と言っているのか。ちゃんとした教育を受けることができていない”日本人”に対して、

「日本人だから人のことを助けるわけじゃないでしょう? それとも何? 日本人だから助けない、と言われたらどう思うとかって思わなかったの? っていうか、人には名前があるの。私は日本人ですなんて自己紹介の時に言わない。私は黄間です、という。それからどこから来たのと聞かれて日本人と答えますけどね。子供たちには未来があって、日本の中では学歴がほんのすこしだけ大切だから、同じように教育を受けさせてあげたいと思うことはおかしいこと? 日本語がしゃべれないと大変だから、もう少し援助が欲しいと思うことがダメなこと? 日本は英語が通じるところも限られているんですよ。大変なの。助けが必要なの。どうしても必要だからお願いしているんですよそういう人たちは」

 と言いたい。これを言うのは間違っているかもしれない。あくまで私の個人の意見であるけれど。

 何も変わらないのにと思う。文化が違うし、社会背景が違うのは知っている。けど、みんな喜怒哀楽があることは知っている。私は感情論が好きなのかもしれないけど、感情から論理を考えるように、思考のプロセスを変えてはいかがだろうか。

 虐げられて人が辛そうにしている映画を見たら、どんなに悪い、棒読みの映画だったとしても、きっと私は泣き始めるだろう。泣くことがいいのか悪いのかはまた置いておく。人それぞれの受け取り方はあると思う。けどとりあえず、私は弱いから泣く。それだけ。
 

言語

なんとなく、自分が日本語で喋っている時と英語でしゃべっている時で性格が違うと思う。いや、根本的には同じなのだろう(というか同じ)だけど、英語だと声が大きくなってちょっと低くなってガンガン言いたい事言う。 日本語だと元々そんなにしゃべらないけどさらに喋らなくなって聞き役に徹する...