2017年9月22日金曜日

映画『The Social Network』を見て感じた人の類似

 えー、ネタバレもあるし、見てないと何言ってるのかわからないと思うので、映画を先に見ることをお勧めします。
 The Social Networkはフェースブックの創始者であるMark Zuckerbergの話である。どこまで忠実に再現されいるのかはわからないけれども、私は個人主義と言われるアメリカで、こういうすったもんだがあるとは、案外日本と似ているではないか、と思ってしまった。
 Markは友人を大切にした。すべてを上手にバランスよく均そうとして、結果としてそれがあまりうまく行かなかっただけではと思う。その一つ一つの決定が間違っていたとは思わない。ビジネスマンとして(というよりも全体的に人として)FacebookのようなでかいポテンシャルをEduardoは持っていなかったと思う。Markは最後まで、彼に「親友だ」と伝え続けていた。それはたった一人の親友を手放したくはない、という葛藤と、どうにか気づいてくれという懇願だったように思う。ただ、Markは決してそれを大々的に言葉にしなかった。遠慮のようなものが生じていた気がする。
 アメリカ人ならスパッと言う。なんてことはない。考え込む人は相手の気持ちを最大まで考慮する。ただ、それは自分の中で内側の人間であった時のみだと思う。Ericaへの仕打ちを見れば、Markが全人類に優しかったわけではないことは一目瞭然。ブログに気分をだーっと書き記しているのは恋愛の一時の感情の高まりかもしれない。けれどBrown Universityをバカにしちゃうところ、全く考えてない。話が少し戻るけれども、Eduardoにだって「お前、マジで使えないからやめろ」と言ってしまってもよかったはずである。
 Markのように、外の人間には割と手当てたり次第暴言を吐きまくり、内の人間には細心の注意を払う人は私の感覚としては多いと思う。外側も適当にいなすのが日本、外側には一語一語はっきりともの申すのがアメリカなのではないだろうか。それは村社会と多様な民族が入り混じるからであるからして云々……というのは、論文で読んでください。
 他にも典型的な日本人っぽい行動の人。(言い方に語弊があるかも知れない、失敬)Seanである。彼は「俺たち、仲間だよね」という仲間意識と、それがあれば自分が危うくなった時に助けてもらえると思っているタイプ。自分が所属しているものに対して、同じだけ、いやそれ以上に見返りを求めるようなそんな人。私の脳裏にも何人か浮かぶ。
 誰かに頼ってないと、心にぽっかりと穴が開く。それを埋めるためだけに人とあって、明るく笑って、ちょっと強気な言葉を言ってしまう。Seanは一時莫大な富を持っていたし、学校へ行っていない(多分)。だからかも知れない。彼が余計に寂しく、必死にMarkに追い縋ろうとしていたのは。
 その粘着質な関係って、日本にないですか? あれ、日本だけだと思ってませんでした? そんなことはない。誰でもどこにいてどういう文化でどういう風に教育を受けたとしても、孤独に耐えられない人はいる。それを誰に向けるかが、ほんの少しだけ違うのかもしれない。

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