こないだユーチューバーのローガン・ポールが樹海に入ってアカンことになった動画が問題になった。それから次々に彼の差別的発言や行動が発覚している。
これって、アメリカを自由の国だと思っているときついかもしれない。特に、アジア人として考えると、
”アフリカンアメリカンほどの差別は受けないけれど、不快に思うことが多々ある”
ぐらいなので、あまり話題にならない。むろん、ハリウッドにしてもメディアにしてもアジア人の占める割合は大きくない。また皮肉にも、その役が”訛りつきでなければいけない”時もある。アジア人=英語ができない。というレッテルは存在する。2世3世は、英語しか知らない人もいるにも関わらずだ。
そういうステレオタイプが根底にあるので、不愉快なことはある。でも、それを大々的に取り上げずに”我慢してくれ”と言われる。しかも、差別の仕方も(ローガン・ポールは明らかにアカンやつだったけれども)グレーゾーンなのだ。
例えば、この間Uberを使った時、
”英語をしゃべれますか?”
と尋ねられた。 ええ、と言うと、
”あ、よかった。しゃべれない人もいるから一応ね”
と言われて苦笑。
あるいは、バーで酔っ払った白人の女の子に
"You're beautiful. Everyone is beautiful. No matter what your race is! You should be proud of yourself."
と言われて、
"Son of a ..."
と思ったのは記憶に新しい。 それは全てを許容していない。ただ、優しい言葉をかけているように見せて、違いをくっきりさせているだけに見える。”私たちは世間で可愛いと言われる分類に入るけど、入っていないあなただって綺麗なのよ。”という隠喩、インプリケーションが見え隠れする。
"I wish you could say it to me before you drink as hell."
といえばよかったのだろうか。酔っ払ってボロが出るのは会社の飲み会だけじゃない。女子大生も同じだ。
この二つは、怒りの矛先を非常に向けづらい。なぜかっていうと、悪気がないから。 でも、紛れもなく私の顔を見て言われた言葉だ。アジア人だから英語ができないかもしれない。アジア人だから劣等感を抱いているかもしれない。
そんなことないのに!
日本も非常に差別的であるとは思うけれど、アメリカもまた違ったベクトルで差別的だということはちゃんと知る必要がある。ゆくゆく日本がもっと多様化してきた時に(あるかどうかは知らないが)、同じ過ちを繰り返さないために。
2018年1月12日金曜日
2017年10月11日水曜日
Is diversity only for minorities?
うちの学校にはDiversity Case Competitionというものがある。私は参加しなかったので詳細はわからないけれど、4人チームのうち一人はMinority(Latino, Native American, or African American)でなければいけない。これに何となく疑問を持ってしまうのは私だけだろうか。多分、ケースコンペを この動画を見た後に見つけたからかもしれない。
https://www.ted.com/talks/mellody_hobson_color_blind_or_color_brave
アメリカというかどこでもそうかもしれないけれど人種は割とタブーである。ちらっと話すと空気が壊れる。どちらかというと言ってはいけない。そういうことを言う前に
Don't take it offensive although it sounds like racism. (怒らないでよね、ちょっと差別的に聞こえるかもしれないけど違うから!)と言われてからササッと差別的なことを言われる時はあるけれども。まぁ、そこは広い心を持たなければやっていけない。ある程度の妥協は必要である。
そんな中で残念ながら自由の国アメリカの人種差別はいつまでたっても消えることがなかった。スピーチ冒頭で言っていたように、African Americanというだけで、会社のトップではない、と思われてしまうこともなくはない。だが、あえてこの不快感の中喋ることで後ろに隠してごまかすことをやめることができるのではないか、というのがMelody Hobsonの主張である。本当に差別をなくしたいのならそういうオープンな心も必要なのかもしれない。
これを見ると、ケースコンペの”マイノリティーが必要”という縛りがどうなのだろうかと思ってしまう。タイトルにもあるように、Diversity=Minoritiesという式が存在するのはその裏に人種による線引きをしているからなのではないか? 私たちアジア人だっていろんな国がある。白人だったところで同じことが言える。一人一人が複雑な人種の混ざりを経て、今ここに存在している。多様性をというのならば、そういうことを多様性といったっていいはずだ。
企業も多様性を掲げるところは多い。ただ、それを本当の意味で受け取っている企業は少ない気がする。Diversity=Minoritiesではない。Diversity=All racesということを分からないといけない気がする。
https://www.ted.com/talks/mellody_hobson_color_blind_or_color_brave
アメリカというかどこでもそうかもしれないけれど人種は割とタブーである。ちらっと話すと空気が壊れる。どちらかというと言ってはいけない。そういうことを言う前に
Don't take it offensive although it sounds like racism. (怒らないでよね、ちょっと差別的に聞こえるかもしれないけど違うから!)と言われてからササッと差別的なことを言われる時はあるけれども。まぁ、そこは広い心を持たなければやっていけない。ある程度の妥協は必要である。
そんな中で残念ながら自由の国アメリカの人種差別はいつまでたっても消えることがなかった。スピーチ冒頭で言っていたように、African Americanというだけで、会社のトップではない、と思われてしまうこともなくはない。だが、あえてこの不快感の中喋ることで後ろに隠してごまかすことをやめることができるのではないか、というのがMelody Hobsonの主張である。本当に差別をなくしたいのならそういうオープンな心も必要なのかもしれない。
これを見ると、ケースコンペの”マイノリティーが必要”という縛りがどうなのだろうかと思ってしまう。タイトルにもあるように、Diversity=Minoritiesという式が存在するのはその裏に人種による線引きをしているからなのではないか? 私たちアジア人だっていろんな国がある。白人だったところで同じことが言える。一人一人が複雑な人種の混ざりを経て、今ここに存在している。多様性をというのならば、そういうことを多様性といったっていいはずだ。
企業も多様性を掲げるところは多い。ただ、それを本当の意味で受け取っている企業は少ない気がする。Diversity=Minoritiesではない。Diversity=All racesということを分からないといけない気がする。
2017年9月22日金曜日
映画『The Social Network』を見て感じた人の類似
The Social Networkはフェースブックの創始者であるMark Zuckerbergの話である。どこまで忠実に再現されいるのかはわからないけれども、私は個人主義と言われるアメリカで、こういうすったもんだがあるとは、案外日本と似ているではないか、と思ってしまった。
Markは友人を大切にした。すべてを上手にバランスよく均そうとして、結果としてそれがあまりうまく行かなかっただけではと思う。その一つ一つの決定が間違っていたとは思わない。ビジネスマンとして(というよりも全体的に人として)FacebookのようなでかいポテンシャルをEduardoは持っていなかったと思う。Markは最後まで、彼に「親友だ」と伝え続けていた。それはたった一人の親友を手放したくはない、という葛藤と、どうにか気づいてくれという懇願だったように思う。ただ、Markは決してそれを大々的に言葉にしなかった。遠慮のようなものが生じていた気がする。
アメリカ人ならスパッと言う。なんてことはない。考え込む人は相手の気持ちを最大まで考慮する。ただ、それは自分の中で内側の人間であった時のみだと思う。Ericaへの仕打ちを見れば、Markが全人類に優しかったわけではないことは一目瞭然。ブログに気分をだーっと書き記しているのは恋愛の一時の感情の高まりかもしれない。けれどBrown Universityをバカにしちゃうところ、全く考えてない。話が少し戻るけれども、Eduardoにだって「お前、マジで使えないからやめろ」と言ってしまってもよかったはずである。
Markのように、外の人間には割と手当てたり次第暴言を吐きまくり、内の人間には細心の注意を払う人は私の感覚としては多いと思う。外側も適当にいなすのが日本、外側には一語一語はっきりともの申すのがアメリカなのではないだろうか。それは村社会と多様な民族が入り混じるからであるからして云々……というのは、論文で読んでください。
他にも典型的な日本人っぽい行動の人。(言い方に語弊があるかも知れない、失敬)Seanである。彼は「俺たち、仲間だよね」という仲間意識と、それがあれば自分が危うくなった時に助けてもらえると思っているタイプ。自分が所属しているものに対して、同じだけ、いやそれ以上に見返りを求めるようなそんな人。私の脳裏にも何人か浮かぶ。
誰かに頼ってないと、心にぽっかりと穴が開く。それを埋めるためだけに人とあって、明るく笑って、ちょっと強気な言葉を言ってしまう。Seanは一時莫大な富を持っていたし、学校へ行っていない(多分)。だからかも知れない。彼が余計に寂しく、必死にMarkに追い縋ろうとしていたのは。
その粘着質な関係って、日本にないですか? あれ、日本だけだと思ってませんでした? そんなことはない。誰でもどこにいてどういう文化でどういう風に教育を受けたとしても、孤独に耐えられない人はいる。それを誰に向けるかが、ほんの少しだけ違うのかもしれない。
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