2018年1月31日水曜日

言語

なんとなく、自分が日本語で喋っている時と英語でしゃべっている時で性格が違うと思う。いや、根本的には同じなのだろう(というか同じ)だけど、英語だと声が大きくなってちょっと低くなってガンガン言いたい事言う。

日本語だと元々そんなにしゃべらないけどさらに喋らなくなって聞き役に徹する事が多い。

あと、議論をしたいと思った時に、なんとなく大阪弁や英語を使いたくなる。それは言語の特性上(というか私の勝手に作り上げた妄想上)、

大阪弁、英語→伝える言語
標準語→包みこむ言語

という認識があるからだと思う。話せないけど、スペイン語も伝える言語。ドミニカに行った時にそう思った。なんと言えばいいのかわからないが、やりすぎると攻撃的に聞こえるのがそれらの言語なのかもしれない(私にとって)。それがいいとか悪いではなくて、手持ちのカードが多いと、その状況にふさわしいところでその言語が使えるから、スムーズにいくなぁと思っただけ。

将来、脳みそにチップを入れてすべての言語が簡単に話せる時代が来たら、そういうことになるんじゃないかなと思う。話す内容によって、言語を変えていく。受けても話しても、”一番伝わりやすい状態”で臨むことができる。

ふむ、面白そうだ。

2018年1月12日金曜日

ローガンポールと人種差別

こないだユーチューバーのローガン・ポールが樹海に入ってアカンことになった動画が問題になった。それから次々に彼の差別的発言や行動が発覚している。

これって、アメリカを自由の国だと思っているときついかもしれない。特に、アジア人として考えると、

”アフリカンアメリカンほどの差別は受けないけれど、不快に思うことが多々ある”

ぐらいなので、あまり話題にならない。むろん、ハリウッドにしてもメディアにしてもアジア人の占める割合は大きくない。また皮肉にも、その役が”訛りつきでなければいけない”時もある。アジア人=英語ができない。というレッテルは存在する。2世3世は、英語しか知らない人もいるにも関わらずだ。

そういうステレオタイプが根底にあるので、不愉快なことはある。でも、それを大々的に取り上げずに”我慢してくれ”と言われる。しかも、差別の仕方も(ローガン・ポールは明らかにアカンやつだったけれども)グレーゾーンなのだ。

例えば、この間Uberを使った時、
”英語をしゃべれますか?”
と尋ねられた。 ええ、と言うと、
”あ、よかった。しゃべれない人もいるから一応ね”
と言われて苦笑。

あるいは、バーで酔っ払った白人の女の子に

"You're beautiful. Everyone is beautiful. No matter what your race is! You should be proud of yourself."

と言われて、
"Son of a ..."
と思ったのは記憶に新しい。 それは全てを許容していない。ただ、優しい言葉をかけているように見せて、違いをくっきりさせているだけに見える。”私たちは世間で可愛いと言われる分類に入るけど、入っていないあなただって綺麗なのよ。”という隠喩、インプリケーションが見え隠れする。

"I wish you could say it to me before you drink as hell."

といえばよかったのだろうか。酔っ払ってボロが出るのは会社の飲み会だけじゃない。女子大生も同じだ。

この二つは、怒りの矛先を非常に向けづらい。なぜかっていうと、悪気がないから。 でも、紛れもなく私の顔を見て言われた言葉だ。アジア人だから英語ができないかもしれない。アジア人だから劣等感を抱いているかもしれない。

そんなことないのに!

日本も非常に差別的であるとは思うけれど、アメリカもまた違ったベクトルで差別的だということはちゃんと知る必要がある。ゆくゆく日本がもっと多様化してきた時に(あるかどうかは知らないが)、同じ過ちを繰り返さないために。

2017年11月19日日曜日

バスの中でクラシック

 バスに乗ると、よく音楽がかかっている。日本のバスみたいに静かにしておかなければとかそういうのはない。あでも、カリフォルニアではかかってなかったから、こちらだけなのかもしれないけど。

 とにかく、運転手が趣味丸出しでガンガンにかけているのだ。普段はヒップホップとかポップミュージックが多い中、こないだ乗ったらオペラでした。

 !?!?と驚きを隠せないまま微妙な顔をして乗り込む。皆それぞれイヤホンしてたりするので特に気にしていない。 乗ってくる人も、音楽なんて聞かずに自分の世界に入っているのかもしれない。

 まぁ、私はクラシック好きだから、ぼんやりしながら携帯をいじっていた。ら、なんと運転手が歌い出した。

「!?!?!?」

 まじか。いや、いいけど。まじか。

 もしかしたら市民コーラスでもやってるのかしら、と思った今日このごろ。

2017年10月18日水曜日

親日家は驚くほど親日家

教授のオフィスアワー(文字どおりオフィスに質問などをする時間)に行った。前に書いたフィードバックを大量にくれるスピーチのクラスの先生である。少しはなしをした後に、

「どうしたらスピーチが上達しますかね」

と質問した。まあ、当たり前だけれど母語よりも英語をしゃべるべきと言いたかったのだろう。

「どこから来たの?」

と聞かれた。日本です、といった瞬間の驚きと目の輝き。正直ぎょっとしてしまうほどだった。それから

 「昔行ったことがあるんだ。すごくいい国だった。食べ物も好きだ。また行きたいと思ってるんだよね。日本人の生徒は君が初めてだよ」

 と弾丸トーク。 なんとなく対応が優しくなった気もする。

授業の時はいつも通りだったから残念ながら成績には反映されないかもしれないが、熱狂的なファンがいるというのは、いつになっても楽しいものである。

2017年10月13日金曜日

アメリカ人はIt's so delicious!とは言わない

 英語の授業について美味しいー、というのはDeliciousと習った。それは誰でも知っているだろう。だけどこれが結構落とし穴だったりする。

フル・ブレックファストのイラスト
Home Sweet Homeの記事 にも書いたけれどもアメリカに来て最初はホームステイだった。食事付きなので自然とホストマザーに面して食べることになるし、最初は味が合うかわからないからご飯どう? と聞かれることもあった 。そのときに"It's delicious."と答えた。だって美味しいってDeliciousでしょ。と思うし、それが学校でなかった言い方だから。だが、いい意味の言葉のはずなのにちょっと変な顔をされた。どうして? 美味しいって言ってるのに! 

 無論、Deliciousという言葉が実はゲロマズという意味でしたということはない。Delicious=美味しいである。でも、普段はGood, great, niceみたいな「いいね!」系の言葉を使う。何をかくそう、DeliciousはI'm fine.の類の言葉だったのである。(習うけど普段口語としては使わない言葉)

 だから、使っても意味は伝わるけれど、ちょっとお固い印象を相手に与えてしまったりする。Deliciousよりも”It's so good! I like it!”というのが自然なのである。他の英語圏は使うかもしれないけれど、アメリカ人と食事に行った時は、Delicious以外の言葉がいいかもしれない。

                  ***
PS
 この美味しいを良いね(Good/Great)で表すのは、全部のことに「やばい!」というのに似ている気がする。言わないけれど超個人的なことを言えば、すべてをGoodと言うより、Deliciousという主に食べ物に使う言葉が良いなと思ってしまうのだけれど、それは机上の空論なのかもしれない。



2017年10月11日水曜日

Is diversity only for minorities?

 うちの学校にはDiversity Case Competitionというものがある。私は参加しなかったので詳細はわからないけれど、4人チームのうち一人はMinority(Latino, Native American, or African American)でなければいけない。これに何となく疑問を持ってしまうのは私だけだろうか。多分、ケースコンペを この動画を見た後に見つけたからかもしれない。

https://www.ted.com/talks/mellody_hobson_color_blind_or_color_brave

 アメリカというかどこでもそうかもしれないけれど人種は割とタブーである。ちらっと話すと空気が壊れる。どちらかというと言ってはいけない。そういうことを言う前に
Don't take it offensive although it sounds like racism. (怒らないでよね、ちょっと差別的に聞こえるかもしれないけど違うから!)と言われてからササッと差別的なことを言われる時はあるけれども。まぁ、そこは広い心を持たなければやっていけない。ある程度の妥協は必要である。

 そんな中で残念ながら自由の国アメリカの人種差別はいつまでたっても消えることがなかった。スピーチ冒頭で言っていたように、African Americanというだけで、会社のトップではない、と思われてしまうこともなくはない。だが、あえてこの不快感の中喋ることで後ろに隠してごまかすことをやめることができるのではないか、というのがMelody Hobsonの主張である。本当に差別をなくしたいのならそういうオープンな心も必要なのかもしれない。

 これを見ると、ケースコンペの”マイノリティーが必要”という縛りがどうなのだろうかと思ってしまう。タイトルにもあるように、Diversity=Minoritiesという式が存在するのはその裏に人種による線引きをしているからなのではないか? 私たちアジア人だっていろんな国がある。白人だったところで同じことが言える。一人一人が複雑な人種の混ざりを経て、今ここに存在している。多様性をというのならば、そういうことを多様性といったっていいはずだ。

 企業も多様性を掲げるところは多い。ただ、それを本当の意味で受け取っている企業は少ない気がする。Diversity=Minoritiesではない。Diversity=All racesということを分からないといけない気がする。

 

2017年10月8日日曜日

冷房の温度が一体何度なのかとても知りたいのだけど

 夏休みの話になる。私は夏学期も履修していたので、もれなく学校へと毎日で向かうことになっていた。学校の冷房はとても効いていた。この”とても”というのは、快適であるところから大きく外れてとても効いていたので、私の教室にはハイネックとジャケットが必要だった。もう少しで、家の奥にしまっていたブランケットを引っ張りだし、学校へと持って行こうかと考えたぐらいだ。

 それでも外は夏仕様なので例え8時からの授業だとしても炎天下である。いちいちカーディガンを持ち歩かなければいけなくて面倒くさかった。しかも一括統制なのか、温度の上げ下げができない。ON/OFFすら変えられないのだからこっちはガタガタ震えながら授業を受けなければいけないのは複雑な気分になる。外と内、足して二で割ってくれたら丁度いい温度になるのに。外は無理でも建物内ならそういう風に設定することだった可能なのに。全力で恨んだところで結局学期中変わることはなかった。

 日本では省エネなんて言って随分経つけれど、アメリカには省エネのしょの字も見受けられない。冬並みに寒い冷暖房を筆頭に、水、電気(つけっぱなしが多い)、リサイクル、その他もろもろあまり気にしない。先進国のトップを走るアメリカは、全くもって環境に優しくないわけで、それじゃあCO2がどうのこうのと言っているのも頷けるわけである。(エネルギー消費に関しては全く無知なので、CO2が本当にどうのこうの言われているのかは知らないけども。)

 日本も人口が多いけれど、アメリカの方が多い。土地も広いし工場も沢山ある。それらが本当に無神経にものを無駄にしていれば、環境が改善されることも、エネルギーをうまく守っていくこともままならないだろう。

 ただ、広大な土地を生かして大量のソーラーパネルや風車を見ることはよくある。日本の比じゃなく、ただ広い草原にブウァーーーーーーっと並ぶソーラーパネルは壮観である。割と電力もそこで賄えているのではないかなぁとも思うけれども、使用量と、自然エネルギーからの配給量が果たしてどれぐらいなのかは疑問が残る。

言語

なんとなく、自分が日本語で喋っている時と英語でしゃべっている時で性格が違うと思う。いや、根本的には同じなのだろう(というか同じ)だけど、英語だと声が大きくなってちょっと低くなってガンガン言いたい事言う。 日本語だと元々そんなにしゃべらないけどさらに喋らなくなって聞き役に徹する...